遺書

無気力人生、言の葉、感受性

匙を投げる

疲れた。気怠い。

何かをした訳では無い。

何に疲れたのかも分からない。

 

ついこの間気がついた。

『 母親は、娘に死なれるより、結婚前提の彼氏が亡くなった方が絶望する。生きていけなくなる。』

と。

それはとても悲しいことだけれど、当たり前だ。 

無職3人の家。過食嘔吐の長女。鬱でヤク中の妹。失敗作の娘二人背負った母親の精神も、かなり参っている筈だ。

そんな所に彼が居るから、生活も母親の精神もなんとか成り立っているものなんだ。

そして、私に存在価値はあるか?

生きていることに需要があるのだろうか?

という疑問を、最近はずっと考えている。

そうして、早く死んでしまいたいと願う。

 

でも、私の鬱も不安も消えてくれると、家族に安を与えられる。笑顔も見れる。体がボロボロでも、それでいいと思っている。

生きている間は。限界が来ることもわかっている。その時は本当に最期だね。

 

何時からだろう、自分の人生ではなく、他人の人生で生きてグルグルし始めたのは。

「だったら自分を大切に自分の人生を歩きなよ。」

それが分からないから、出来ない。

 

私は限界が来て死に損なった度に、私の人生、リセットではなく、捨ててきたのだろう。きっとそうだ。

 

もう分からない、伝えたい思いが書けない。

ちゃんと書けないから届かない。

まるで幽霊。